棒術(棍法)
棒術は、古くから琉球王朝時代の役人の使用した物とされている。
「沖縄語辞典」によると、棒とは「荷物を担ぐ棒」「武術陽の棒」とあり、一般の町人や漁民、農民の生活必需品でもあり、自己防衛の為に研究され優れた技法が多く伝わっている。
また、中国武術と共に伝わった技法も多くある。
歴史的に見ると、今から600年前に、中国福州の冊封使が琉球入りした際に、沖縄の人に棒術を伝えたと推定される。また、沖縄の人が中国南方・上海等に渡り、それらの地域で棒術を学び、沖縄に帰り研究したことも考えられる。
しかし、中国の兵書「武備誌」や「紀行新書」等にみられる棒術は、その技法から現在の沖縄で修業されている技法とは、ほど遠いものである。少林棍法は、「すべての武術は棍法を宗とし、棍法は、少林を宗となす」と書いてある。また、紀行新書には、「棒を用いるは四書を読むが如く、鈎刀槍を各々一経として習うが如し、四書に明るければ、六経の理また明るし、棒即ち各利器の法に従ってこれを得るなり」と記載されている。
つまり、棒術は諸有器武術の根源であり、基本である。
沖縄の棒術は、大和、特に薩摩藩の武芸の影響と中国南派少林武術の影響とミックスされた琉球独特の技法で有り、沖縄の地形と環境の変化のもと発達されたものである。
更に 沖縄の侍が行う武術の棒の形には、何々の棍と琉球王が承認して「棍」の名称を使う。村棒とは区別されたものである。
武士階級の人々が所持していた棒は、五尺八寸で、当時の家屋の鴨居の高さが五尺八寸だったので、室内での使用に不覚を取らないために短くした物である。
これを六尺棒と云った。棒の種類には、三尺棒、四尺棒,六尺棒(短尺で尺杖とも云う),
八尺棒,九尺棒,十三尺棒(馬上棒とも云う)等がある。
形目録
一 棍法
周氏之棍
朝雲之混
佐久川之棍(別名知念山根之棒)
津堅之棍
添石之棍(別名末吉之棍)
研究課題
大屯棒
大棒(別名大城佐久川之棍)
白樽之棍
德嶺之棍
八尺棒
杖術(グゥサン)
杖術は、グゥサンといわれる杖で、棒術を主体とする沖縄古武術の中で杖の技法はとても珍しく、武士松村宗棍をはじめとする薩摩示現流の使い手が学んだ武術で、示現流の影響を受けた他、棒術、剣術等の技法が入る変幻自在の武術である。
形目録
杖術(グゥサン)三尺杖(座敷棒)
鎌術(カマヌティー)
琉球の鎌術を知るには、農耕社会の始まりを知る必要がある。
それは、12世紀ごろから始まり、農耕を基盤とした集落が形成され、グスク時代と呼ばれる社会が構築された。
しかし、農具の普及状況を調べても「真志和・南風原・大里、東風平・豊見城の間切」においても、18世紀半ばですら、最も単純な農具であるヘラや草刈り鎌が普及していない。
そこで、蔡温が、農作業の手引き書『農務帳』(1734年)を発布し、治水・灌漑事業を実施して、王国の河川改修を行い、農業改革を実施した。
この時代に大和(日本)から鎌などの農機具が輸入され普及していく。
そして、慶長年間薩摩の侵略により、検地をはじめ幕府の政策が入り込み、文化の交流も活発になり、日本の文化が琉球にも入り込んで来た。
薩摩藩内に琉球館が築かれ、その中で武術を修業する琉球の侍がいた。そして明治初年まで続いた。
琉球の鎌術(二丁鎌)は、江戸中期以後、南派少林拳の影響を受け、日本の武術の技法を取り入れ発展を遂げ、明治時代に又吉家でその技法の保存に努めた。
そして、この技法は、戦前まで鎌の手(カマヌティー)と呼称され、武徳会等の記念演武大会で又吉真光先生が演武を実施した。
しかし、この鎌術は、◯◯二丁鎌と地名や人の名で呼ばれたことは無かった。
琉球の武術で、大和(日本)の道具を使用したものを手「ティー」と発音した。
次に長鎌、別名を長鎌の手とも言い具志川村の武士安慶名直方(具志川ティラグワ)より伝来した技法で、又吉家では、秘武芸の一つで通常沖縄古武術では、二丁鎌を連想するが一刀鎌の技法も保存されている。
形目録
一 鎌術(鎌之手)
二丁鎌初段
弐段
参段(奥之手)
一丁鎌之手
長鎌之手
月鎌之手
流星鎌之手(スルウチンカマヌティ)
鍬術(クエヌティー)
別名を鍬の手とも言い、薩摩藩の武技の中にも鍬を戦で使用したことがある。この農具が琉球に伝わり、砂糖黍畑などを耕すものをそのまま武器としたもので、薩摩示現流のトンボの構えと同様の構え、打ち方が鍬の手に見られ、また、中国福州でも類似の武術が現在も残っており、相互の武術交流の形跡が伺える形である。
形目録
鍬之手(クゥエヌティ)
櫂術(ウェークディー)
櫂術は、、中国上海で行われていた武術が、勝連村にある津堅島の魚師で赤人(チキンアカチュ)という海人(ウミンチュ)で、日焼けしていつも赤い顔をしているので津堅アカッチュウの異名の武人が修得し発達した武術である。
赤人は、今から400数十年前のチイグ王が王位に就くのを反対した津堅親方が追われて津堅島に逃れ、島の裏側に位置する洞窟に隠れ、洞窟付近で掃除をしていた赤人が津堅親方の身の回りの世話をするようになり、親交を深めた。
そこで、津堅親方から唐手、棒術等の手ほどきを受けた。
伝説によると、赤人は、身の丈六尺余りの大男と伝えられている。
ある時、漁の途中で暴風に遭い、朝鮮半島に漂流し、その時、虎に襲われたので、櫂でこの大山猫を退治したことから、朝鮮の人に人食い虎を退治したと深く感謝された。
櫂の手は、くり船の櫂を用いたもので、漁師が自分の身を守るために、編み出されたもので、刀や槍、棒を持った相手に対し、櫂で攻防するという技法である。
波切りの部分は、鋭く波切りの箇所で打たれたりすると切れてしまう程、威力がある。 しかも、砂かけ(目潰し)には、もってこいの武器である。
その攻防は、櫂ならではの特徴を持っているまさに、漁師の刀に匹敵する。
現在、赤人の系統の姓、赤嶺で屋号を「アカンミ」屋敷が、顕在する。
形目録
津堅赤人之櫂之手(ツケンアカチュヌウェイクディー)
釵術(サイ)
中国との交通が盛んだったころ、その武官が携帯していた鉄尺が、琉球釵術に転換したもので、王朝時代の筑・佐事(役人のこと)携行して王府の警備に当たり、江戸時代の十手に相当するものであるが、二本、あるいは三本一組で使用し「守」と「攻」に力を発揮する。
また、逃げるものには投げて刺すこともある変幻自在の武具である。
琉球の武術の中で最も古くから明、清王朝から伝わる武具を琉球化したものである。
釵という文字は、金偏に又と書く。釵は「かんざし」を意味する言葉である。
琉球では、久米村の「三六九並諸芸番組」に出てくる「鉄尺」である。
形目録
釵術(鐵尺術)
二丁釵
三丁釵
千原之釵(中国之釵)
柱拐術(トンクワァ)
この武術は、福健少林拳を代表する武器術で、福州の方言で「トウングワ」または「トンクワー」と云う。
中国武術研究者の松田隆智先生の著書「謎の拳法を求めて」第2章、空手編59頁に「空手源流考」として具体的に記載してある。
福州地方で行われていた武器術が、沖縄に伝わりおもに「守り」を中心に型が構成され体がトンクワァで一撃されると持っている手が痺れ獲物を落としてしまうほど威力のある武器である。
そして、この武術が田園地域で発達したことから、特殊な方法で泥をかける技法(目潰し)があり、当時の福州地方の名残があり、琉球王朝時代の武士伊禮親雲上真牛(ヂトデーモーシ)から又吉家に伝わったものである。
形目録
柱拐術(トンクワァ術)
初段
弐段
三段
双節棍術(ヌンチャク)
薩摩の琉球征伐後に女性が自分の身を守る為に、護身術や隠し武器として発達したものである。
その技法は、南派少林武術から取り入れ、琉球化したもので、中国福州の方言で、二節棍、両節棍などと書いて、『ヌンチエクン』と発音している。
その技法は、かなり古くからあり、哨子棍などの使用法とよく似ている。
また、ヌンチャクは、肘の長さ程の樫の棒を二本の強い紐で結んである。
一名『双節棍』と称している。
形目録
双節棍(ヌンチャク術)
初段
弐段
二丁双節棍
三節棍(少林三節棍)
三節紺は、三国志などに出てくる歴史的に古い武器である。
一本の棒の長さが約70センチ程で、これが三本連鎖しており、棒等の武器よりは、遙かに長い武器である所に長所がある。
その操作も手で降るものと棒の如く一直線にするものがり、身体全体で攻防を展開する武術である。
この三節紺は、双節棍や哨子棍などと兄弟武技であり、中国で発達したものである。
琉球では、連結部分が紐で結着され、また、小さく変形した三節紺も有り帯上の中に隠して相手に悟られない工夫されたものもある。
双節棍や三節棍、四節棍等の小型で隠し持つ物を懐護身具と呼称する。
形目録
三節棍
初段
弐段(虎尾)
懐参節棍
一 四節棍
車棒
車棒は、麦打ち等に使われたものであり、農民の武器である。
その技法は、双節棍や三節棍等と類似しており兄弟手(チョウダイティー)である。
久米村の「三六九並諸芸番組」に出てくる「車棒」である。
歴史的にも古くから武器として用いられているもので、形の中に蹴り技が入る武術である。
形目録
クルマンボウ
藤牌術(ティンベィー)
藤牌は、琉球王朝に伝わった南派少林武術のものです。
この武術は、盾(ビンローの木の皮に油を塗って仕上げ、あるいは、竹を編んだものの上から牛のなめし革を貼って円形等にした物)と苗刀、青竜刀、剣、流星等を持って一組として戦うティンベーと呼称される武技です。
盾にはそれぞれの流派の模様、又は、敵を威嚇することにも利用された武器でもある。 又吉真光は、琉球王朝時代から伝わる技法に福州及び上海方面で金硬老師より指導を受けた南派少林拳の技を発展させ、沖縄化したもので、沖縄古武術の中で刃剣類等を使用する数少ない技法である
形目録
藤牌術(ティンベィー)
苗刀・山刀・海胆スルウチン
貫手術(ヌンテイ)
貫手(ヌチディ)は、中国明王朝時代に著した「水滸伝」の中で描かれているものが、琉球王朝時代かに伝来したもので、その経過は、1392年中国閩人(ビンジン)三十六姓が那覇久米村で帰化し、1404年、中国冊封使が初めて来琉し、1439年、中国福州に琉球館が設置された。
これらの交流から貫手術が伝わったものである。
貫手は、漁具の一種として使用され、大きな魚を捕る際に、投げて使用したり、引っかけて使ったもので、櫂と同様に海人(ウミンチュ)の武器であった。
明王朝時代の武官が使った物が、琉球に伝承したもので、中国のものと形状がやや違うが、大陸では、太子手(釵)「タイツーシー(サイ)」と呼称し、蘇東成先生の國猴拳法に紹介されている。
国術典範(十八般武芸全書)に、ヌンテイ棒が、中国南宋時代(1127年~1297年)に完成された武術で、武又(ブシャ)と云う名称で、紹介されている。
形目録
貫手術(ヌンティ棒術)別名槍術
初段
弐段
貫手釵
流星術(スルウチン)
この型は、沖縄古武術の中でも唯一、石と紐を使用した原始的なもので、原型は石器時代にさかのぼるほど古く、敵を絡め引き倒す、打ち砕く等の技法が網羅された極めて貴重な武術である。
形目録
流星(スルウチン)別名投縄術
三尺
六尺
八尺
一二尺
投擲武術
沖縄古武術の投擲武術は、手裏剣をはじめとして、ジーファー、手柱、鎌、スルウチン、双節棍などがある。
真光が、樺太、満州、福州、上海、阿南等を武術修行を通し、身につけた技法もある。
南派少林派鶴拳法
南派少林拳の技法が色濃く残る唐手術で、沖縄唐手術の中でも極めて珍しい技法で呉賢貴より又吉真豊翁に伝授されたもので「鶴の手」と呼ばれているもので、鶴の呼吸法と技法がムチミを表し、とても貴重な鶴拳です。
形目録
南派少林派鶴拳法
基本型
鶴三戦(八歩連)
第一鶴立歩・第二鶴立歩
鶴法
短鶴
羅漢拳
二十四手(ネーシー)
二十八打(ネーパイ)
白鶴兵法
練鶴・遊鶴・初段・弐段・参段
飛鶴拳法
長拳・短拳
七娘鶴法
白鶴先師元帥手(極意)
白鶴双刀
金硬流唐手拳法
形目録
金硬流唐手拳法
基本型
三戦(首里三戦)
開手型
王冠・十三歩・五十四歩・五十七歩・七十二歩
虎之手(マャーヌティ)
蟷螂(イサトゥメィ・南派蟷螂拳法)
酔之手(イッチャーディ)
虎鶴(壱百零八歩)
那覇手
那覇手の歴史については、諸説あり、之がそうだと断定できることは現時点では記載できない。
又吉真豊先生が傳授を受けたのは、比嘉世幸先生で東恩納寛量先生からの技法であることは間違いない。
龍ケ崎光道館では、又吉真豊先生と喜納正興先生から傳授を受けたものを指導している。
形目録
那覇手
基本型
三戦
開手型
砕破・制引戦・四向戦・一八手・一三歩・三十六手・久留頓破・百歩連
閉手型
六機手
昔手
昔手(ムカシディー)は、琉球王朝時代に存在した武術を、その武士である新垣世璋翁、国吉真吉翁が伝えた形を城間真繁先生等から又吉真豊先生が直接指導を受けたもの。
また、喜屋武朝徳先生より直接指導を受けた喜屋武少林の形。更に門中に伝わる松村宗棍の流れの首里手の形。
を龍ケ崎光道館で指導している。
一 昔手
泊新垣之尚戦
泊新垣之親雲
泊国吉之二十四
首里多和田之抜塞パッサイ 内範戦ナイハンチン
首里松村之公相君クウサンクゥー
泊松茂良大公相君ウフクウランクゥー鎮闘チントウ
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